地球的課題の実験村

 戦後日本の民主主義のあり方を問い、四半世紀を超えて闘われてきた三里塚闘争の対立構造解消のひとつの到達点が、「地球的課題の実験村構想」でありました。この構想の運動体である地球的課題の実験村の機関紙への掲載依頼が私にあり、事務局長の佐々木希一氏に良くまとめていただきましので掲載させていただきます。

 

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百姓百生土地の買収には、未来を考える思想が必要だ宇都宮高明さん

 成田市議会議員の宇都宮高明さんは、実験村が発足して間もない頃のイベントに顔を見せ、「実験村の可能性」について熱っぽく語っていた印象がある。かつては空港公団職員として農家と直に用地買収交渉を行い、いわば「反対運動切り崩し」を第一線で担った人が語る「実験村への思い」は、当然ながらかなり気になった。

 だから一度はちゃんと話を聞いてみたいと思い、それがようやくかなっての面会だった。ところがお会いすると直ぐ、ほとんど面識の無い私に向かって「実験村への思い」を勢いよく話し始められた。彼の方にも、私たちに伝えたいことが沢山あったのだ。

 面会を前に宇都宮さんのホームページを改めて閲覧し、「『つち』を『コンクリ』に変えた責任を自らのものとし・・・」という一節に再び行き当たった。この一節の真意をぜひ聞いてみたい!そんな思いを強くしていたので、それをぶつけてみた。

 すると宇都宮さんは、1枚のコピーを見せてくれた。財団法人・花と緑の農芸財団発行の平成19年(2007年)の刊行物に、理事として書いた「巻頭言」である。「この大地は先祖から譲り受けたものでなく、子孫から借り受けているものである」と題された文章の冒頭には、「これは、ネイティブアメリカンの古くからの言い伝えであるといわれています。(中略)三里塚闘争時の空港公団用地部職員として『つち』を『コンクリ』に変えることに直接参加した私にとって、この教えは大切な指針です」とあった。

 花と緑の農芸財団は、宇都宮さんが学生時代から関ってきた「花と緑の運動」がルーツだ。難民孤児救済活動を通じて当時のベトナム戦争の悲惨さを見つめながら、同時にテト休戦の街にあふれる花に「心のやすらぎ」を見出すことで掲げた「花の革命」フラワーレボルーションの運動だ。その宇都宮さんが前述の「言い伝え」に出会うのは、政府交換留学生としてメキシコ滞在中の1972年(昭和47年)だった。そして22年後の1994年(平成6年)、彼は成田空港問題円卓会議でこれと同じ理念に出会ったのだ。

 「児孫のために自由を律す」という反対同盟の提起は、いわば「指針」との再会だったろうし、「地球的課題の実験村」構想は「指針」を活かす道標だったのではなかろうか。「花と緑の農芸財団は、私にとって実験村そのもの」と言う彼の言葉が、そう思わせる。

 「空港用地の買収は、道路とは違って“面”を買収する事。だから地域の未来を考える思想が必要なんだ」。「今回の『第三滑走路』だって、その建設の可否や騒音対策云々以上に、それを作る場合の地域の未来構想をどうするかが一番大切なことだし、その原案は実験村構想としてすでにあるんだから、これを活かすべきなんだよ」。

 成田空港がすでに社会的に機能している以上、それを周辺の地域社会といかに調和した存在にできるのか、その構想を地域の側から提唱する礎が実験村構想なのだと、宇都宮さんは言いたいのだと思った。                   事務局・佐々木希一

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